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オダチカの戯言日記

大東亜戦争~アジア後編

            スリランカ

★J・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で日本のみが強力且つ自由であってアジア諸民族は日本を守護者且つ友邦として仰ぎ見た。当時、アジア共栄のスローガンは従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には最愛の祖国が解放されることを希望して日本に協力した者がいたのである。」(1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

★セイロン(現スリランカ)代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相の発言一九五一年九月、サンフランシスコ対日講和会議の席上
「アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。
往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」。セイロンは日本への賠償請求権を放棄。セイロンに続き、インド、ラオス、カンボジア、アメリカも賠償請求権を放棄している。逆に性質が悪いのは寝返ったイタリアと、永世中立国(だったはず)のスイス。両者ともに日本から賠償金を分捕った。


            ビルマ

★バー・モウ 元首相(ビルマの夜明け)
「歴史的に見るならば日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたの解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北もアジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本の為に惜しむのである。」
「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」


★ バーモウ (ビルマ元首相 独立宣言)より (一問に百答 日下公人 PHP研究所)
約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」


★ミャンマー(旧ビルマ) ビルマ独立義勇軍
アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。


★ビルマ外相 ウー・ヌー 1943年8月1日独立時の演説より
「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」 

            シンガポール

★ゴー・チョクトン 首相(「諸君!」平成5年7月号)
「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された。」


            韓国

★朴鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」


★参考資料: 韓日人協会理事長 鄭時東
第二次世界大戦を日本国民は団結してよく戦った。それが契機となってアジア諸国はすべて独立した。この偉業は将来誰も否定できなくなるであろう。そして注目すべきことは、あれほど戦っていた日本が敗戦と決まれば、整然と矛を収めたことである。この見事な収拾ぶりは世界の驚きであった。


            フィリピン

★フィリピン独立記念での演説   パルガス フィリピン大使
「しかし、大日本帝国は軍政を最終的に撤廃し、フィリピン共和国の独立を承認するというこのうえない形で、その高邁な精神と理念を証明した。帝国はその全ての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。大東亜において日本帝国はあまりに激しく、あまりに不当に圧政暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国であったが一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した」


★フィリピン ジョジョ・P・マリグ(フィリピン人ジャーナリスト)SAPIO(小学館)2000年12月20日号「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった/井上和彦氏」より
「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき”英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の”武士”です」

★フィリピン ダニエル・H・ディゾン画伯・・・1974年(昭和49年)、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言。マバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立した。
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ぱせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。
アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」 「フィリピン人は日本で伝えられているような”反日”などではなく、むしろ親日的ですよ・・・。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも”リアリスト”です。戦争があれぱ多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません」


            中国

★中華民国 『三民主義』 著者 孫文(中国革命の父)
ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題代弁者だった。他のアジア諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白人人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが知能に違いはない。アジアには強い日本があるから、白人人種はアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけではなく、アジア全民族の地位を高めた。


★汪兆銘(孫文の第一後継者にして中華民国南京政府主席)
「(日露戦争に対して)中国国民のこぞって願ったのは、日本の勝利だった。今日の現状をみて中日両国はとうてい心から相和することはできないという説をなすものがあると、私はその度に、昔東京で過ごした日露戦争当時のことを想い起こす」

★1928年 「日本論」 戴天仇(中国人)
清国はアロー戦争でフランスに敗れ、ロシアは満州を征服して日一日と南下政策を続けた。もし日本が北進に努力しなければ、ロシアは必ずや朝鮮を侵略したであろう。腐敗せる朝鮮王室と両斑ががどうして露国を一掃し得たであろうか。故に日本の北進はやむを得なかったのである。日清・日露の両大戦は、日本にとって民族の興亡、国家の存亡を賭した戦いであった。中国とロシアはともに世界の大国である。小をもって大を抗す、しかも十倍の大に抗するのである。日本人が気狂いでない限り、一歩退いて考え
 

            台湾

★「台湾人と日本精神」 蔡焜燦 2000年 日本教文社(台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。しばらくして、敗戦の事実が我々「台湾出身生徒」にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。
それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。他方、「朝鮮出身の生徒達」は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。「・・・一つだけいっておきますが、日本が台湾に謝罪する必要はありません。それよりも隣の大きな国と戦っている台湾を声援してください」「日本人よ胸を張りなさい」


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